ともに徳川幕府の有力な譜代大名として、
大老職を勤めた彦根の井伊家と小浜の酒井家との維新後の、
百三十余年の対照的な歴史には注目させられる。
小浜城は、明治三年大阪鎮台第一分営工事中に不審火があり・
分営はやむなく彦根城へ移された。
不審火は新政府側分営に反対する旧小浜藩土族の仕業との見方もある。
焼け残った天守閣も旧藩主の意思や、廃城令もあって解体され
明治八年本丸跡に藩祖酒井忠勝を祀る小浜神社が創建された。
いっぽう、分営を受け入れた彦根城は、困難な曲折を経たが
見事にそのまま残り、今では国宝とな⊃て芙しく琵琶湖に映えている。
井伊家では昭和十九年二月、お城を含む城山一帯を彦根市に寄贈された言う。
両城にぱ運命とはいえない何かがあるのではないか。
戦後、井伊家の十六代当主は昭和二十八年五月から、
実に九期三十六年間、彦根市長として市民の衆望を担われた。
片や、酒井家十六代当主は昭和三十二年、市民に推され小浜市長選挙に立候補された。
相手は二期目に挑む現職で、小浜城築城の際に立ち退かされた下竹原の出身で
運命的とも思える両者の対決であったが、一騎打ちの末、実質三百四十六票の僅差で、
ついに小浜市長に迎えられる事はなかった。
因みに両十六代当主の夫人は、沖縄王朝宗家の姉妹でありご親戚でもある。
近代における彦根と小浜のこのありようは、何に起因するものであろうか。
研究考察が求められる。
中島辰男
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