今春発刊の小浜市史によると、「営舎の改造工事中に二の丸から出火し、
本丸を残して大部分が焼失、やむを得なく分営は彦根城に移され、
城下町小浜は軍都になることを免れた」とある。
平成七年編「近代日本戦争史」は、「鎮台の設置」で
「明治四年八月二十日、諸藩の常備兵を解体して内外警備のため
上表の如く四鎮台を設置すると達した。
大阪鎮台・第一分営・小浜・歩兵一大隊とあるが、
同年十二月、大阪鎮台第一分営を小浜から彦根に変更した」と述べている。
「戌辰の役」で勝利した新政権は明治四年二月、鹿児島、山口、高知
の三藩兵一万名を上京させて御親兵とし、この武力を背景にして、
同四年七月二十一日廃藩置県(二百六十一名の旧大名の県知事を解任、
一切の軍事権、徴税権を東京に集中した)を断行したのである。
全国に八カ所の分営を新発田、上田、名吉屋、
高松、広島、鹿児島、
青森そして小浜に設置する。
当時の歩兵一個大隊は約七百人で、小浜へは、加賀、能登、越前、
若狭、近江、丹後、但馬、因幡、伯耆の諸国からの兵が予定されていた。
しかし、小浜城の火災によって、小浜の分営は「幻」となった。
これは、新政権を快しとしない人による放火との、
当時のうわさが今にも伝わっている。
「鳥羽、伏見の戦」に敗れた旧藩士は、幕府への思いは強く、
小浜城に新政府軍の兵営が来ることに、堪え難い屈辱を感じたのであろうか。
日清戦争後の明治三十年代初め、政府は帝政ロシアが中国北東部(旧満州)に
進出しつつあったから、日本海側の防備を急がなければならなかった。
敦賀、福井間の鉄道が開通したので、ただちに福井県下に旅団司令部と
二個連隊の設置を決定した。
敦賀町では、軍隊の誘致をはかって町の活性化を図るべく
町議会の誘致決議のもとに政府に運動を展開、
さまぎまな困難を県の協力も得て克服し、見事に成功させる。
難しい用地買収に 誘致責任者大和田荘七は、
自らの所有地四反余を軍に献納したという。
こうして、旧小浜藩領敦賀に旅団司令部と第十九連隊が、
旧鯖江藩領には第三十六連隊が設置され、昭和二十年の終戦まで続く。
敦賀市は来年、開港百年を迎える。
戦後にあっても北陸トンネル、北陸自動車道、日本原電など
大プロジェクトにいとまがない。
置県百十七年、敦賀の人口は二・三倍になり、
小浜市を中心とする旧遠敷郡のそれは○・八五倍に減少している。
財政力においても平成八年度当初で、
国への依存度は敦賀市の三一%に対して、小浜市は七五%を越える。
未知のものや、新しいものに、対照的な両市の取り組みの差であろう。
鯖江城は、天保十一(一八四〇)年、将軍家慶から五千両が下賜されたが、
幕末の情勢が築城を許さなかった。
平成の今、悲願達成を目指して、お城の建設委員会が発足したという。
寛永十五(一六三八)年、若狭路に建つ。
江戸期のシンボル。
珍しい水城。
江戸城富士見櫓(やぐら)を模した白亜の三層の天主閣が、
再び小浜湾の夕日に映える日は。
若狭歴史民俗資料館長 中島辰男
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