小浜城

三代将軍家光の重臣、大老酒丼忠勝の居城、
小浜城の復元を目指す「小浜城復元市民の会」が五月一日発足した。

この小浜城の歴史には多くの特色が見られる。

第一に本丸の三方を南北両川と多田川、江古川を自然の堀として、
西を海で守る要害の地であった。
海城または水城といわれ、数少ないわが国の貴重な城址である。

第二に砂ばかりの三角州での築城は
「砂上の楼閣」ならぬ「砂上のお城」で、
実に工事は困難を極め、
他の多くの山城や平城には見られない莫大な労力と資材(石)を必要とした。

従って完成までに当時の築城の平均七年を超え、
天下の江戸城の三十三年をしのぐ城主三代四十四年を要した。
領民の負担は重く、有名な松の木庄左衛門の悲劇が起きている。

第三に、一般に高くそぴえる天守閣は、火事や雷、地震に弱く、
江戸城の天守はわずか十九年後、有名な振袖大火で焼失し、
福井城の天守も六十余年後の火災で失われる。

しかし、小浜城の天守閣は実に城主十四代二百三十六年間、
若狭路のシンボルとして、平和な江戸時代幕府の重臣として、
若狭路を治める政治権力の象徴としての役割を長く果たす。

第四は明治維新により廃城となる特異な経緯である。

譜代大名小浜藩主は徳川日本に最後まで忠節を尽くした。
鳥羽伏見の戦いで長州・薩摩軍に敗れ朝敵となって苦しむが、
同じ朝敵となった藩で城を焼く事件が続発する。

小浜でもお城に新政府の大坂鎮台第一分営が置かれることになり、
その工事の最中、二の丸から出火、天守を残して焼失した。
分営を快く思わない士族の放火といわれている。
そうして明治八年、天守も新政府への思いからか自ら破却してしまう。
一方、分営を受け入れた彦根城は国宝として今に生きる。

第五に、変貌する小浜城の姿である。
本丸多門など三十を超える櫓、二の丸、三の丸、北の丸、酉の丸や内堀は
すべて失われ、福井城に次ぐ二万坪に及ぶ城域もわずか三千坪となり、
今は本丸の石垣と天守台を残すのみとなっている。

これは主として水害に伴う河川改修によるもので、珍しい水城の宿命であった。

さて、若狭の歴史の中でも小浜城ほど、
領民の力を結集したであろう壮大な事業をほかに挙げることはできない。

はるかに貧しい時代の領民の血と汗の結晶を、
私たちはこれ以上損なうことはない、

松木長操(庄左衛門)の心を伝える遺跡としても後世に残さなければならない。

絵図や設計図が現存するため、克明な天守の復元が可能と聞く。

私たち領民の後裔は、この掛け替えのない文化遺産を大切に守り、
長く豊かな若狭路の歴史に自信と誇りを持ち、後世への贈り物としたい。

 若狭歴史民俗資料館友の会々員

           
中島辰男





美しい若狭を守り伝えたい・・・・