若狭小浜領主 歌人 木下勝俊
郷土史家 永江秀雄氏
木下勝俊とは、豊臣秀吉の妻(寧子=ねね)の兄である
木下家定の長男として生まれ、幼少のころから秀吉に仕えて、
19才で九州に、22才で小田原に従軍し、
また播州竜野の城主、若狭小浜の城主ともなった武将である。
所が、秀吉の死去した翌々年の
慶長5年(1600年)に起こった関ケ原の合戦に先立って、
徳川家康はその居城としていた伏見城を
木下勝俊に預けて留守をさせたが、
勝陵は石田三成等の西軍が
攻撃を加えて来る前に城を脱出してしまった。
関ケ原の戦後、勝陵は伏見城放棄の罪により領地を没収されて
京都東山三本木の北の政所を頼って高台寺で木下長噺子と名乗り隠棲し
ここに彼の専ら風月を楽しむ文人としての生活が始まった。
時に齢32才であったという。
それ以後81才で没するまで、
ひたすら風雅を友とする隠者の生活を続けたが、
彼は武将木下勝俊としてよりも、
その雅号により
歌人「長繭子」(ちょうしょうし)として余りにも有名であり、
隠棲中は、茶を千利休から習い、
細川幽斎や林羅山とも交流して和歌をたしなみ、
『挙白集』を編んで、近世和歌の大家として著名。
今も日本文学史上に大きな業績を残しているのである。
〜後瀬山此里にすみ始めしころにや
さとの児か椎ひろひにとなれてさそふ〜
木下長噺子花押 |
なお、私は長騎子について忘れ得ないこととして、
次のようなことがある。
昭和33年7月、小高師に随行して再び宮川の地を訪れたとき、
龍泉寺とも密接な関孫のある本保の清水三郎右衝門家で
多くの貴重な古文書を拝見した。
その中に、文禄4年(1595)11月2日付で
本保村の百娃中へ下された時の領主木下勝俊の「掟」があった。
「走り百娃」の禁止など内容は概ね
その前の領主浅野長政の方針に準拠するものである。
しかし、その末尾に
「総じて、百娃とは一段と気の毒な者だから、
この上にも迷惑することがあったら、直訴して来い。
なお以て情けをかげるであろう」
との意が明記されている。
これを領主の巧妙な懐柔策とみなす史家もあるが、
私は地元に残る領主勝俊についての伝承
(年貢米に関連し百娃への思いやりの話)もあり、
この「掟」全体にはその温かい人間性が本当に表現されている、
と信じている。
木下長噺子画象
特報
茶人・木下長噺子展 〜文人とともに歩む喫茶〜 9月21日〜 12月28日 酔月 町並みと食の舘・展示室 |
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担当 | 小浜市歴史遺産振興室 |