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〜浅井三姉妹次女 お初(常高院)〜



「さらぬだに 打ちぬるほども 夏の夜を 別れをさそふ ほととぎすかな」
(お市の方、辞世の句)


幼い娘三人を残して、
三十六才という若さで命を絶たなければならなかった
お市の方の心情はいかばかりであったでしょう。



 お市の方が、真ん中の次女お初に託したものは、
「姉と妹を結ぶ絆となるように」との願いであった・・・。
しかしながら、関ヶ原の戦いでは、
京極家を守るために、大阪の姉からの誘いをことわって、
徳川方につかなければならなかったお初。



四十八歳で迎えた大阪冬の陣では、
大阪側の使者として和議の交渉にあたり、
戦をやめさせ、
姉の淀殿や、甥の秀頼を守り、
両家の和解をはかるべく、
懸命の努力をしたことは周知のことである。




 「袖触れ合うも他生の縁」という。
偶然、道で出会った人であっても、
過去世からの深い因縁によるものだという。
ましてや、親子となり、兄弟姉妹となり、夫婦となるのには、
深い深い絆があってのこと、
その絆を大切にしたいものである。


 


お初 菩提寺

臨済宗妙心寺派 凌霄山常高寺

住職 澤口輝禅






京極家再興の祖といわれる京極高次は、

江戸時代初期の小浜藩主であり


高次に嫁したお初の方(淀君の妹・後の常高院)が発願して

建立した常高寺では、


現在も寺紋として「四つ目結」
が使われています。






お初が愛した小浜



織田信長の妹・お市の方を母とし、
日本史上最も有名な三姉妹・


浅井氏三姉妹の次女「初(藤子)」は、
姉で豊臣秀吉の側室となった茶々(淀殿)と
徳川秀忠の正室となった妹の江とともに、
戦国時代末期を生き抜いた女性です。





時代の波に翻弄された姉と妹との狭間で

平和を願った初が

若狭小浜に眠ることを決め

若狭小浜に大切に伝えられてきた


「初」の心を受け継いだ


お初  菩提寺

凌霄山 常高寺









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