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川端龍子「幾松肖像」

「幾松こと木戸松子のこと」
〜明治維新を蔭で支えた女「幾松」〜


 「幾松」こと木戸松子の名前をはじめて知ったのは昭和五十七年春のことである。

当時、私は岬小学校に勤務しており、
神子分校横の宿舎にて生活をしていた。


四月十日の早朝、
外ではいつもと様子が異なり幾人かの人声がする。

 外へ出てみると、神子分校横の慶雲寺境内、
山門横に「幾松観音像」が安置され
臥龍院住職安藤良童和尚により開眼供養がいとなまれ、
私もそこに参列することができた。







 「幾松」こと木戸松子が幼少の頃、
母末子の実家、
神子浦の細川太仲家の孫として育てられたことを
地元人以外はあまり知らない。



松子は若狭小浜藩士木崎市兵衛・末子夫婦の長女として
天保十四年に生まれ、幼名を計(カズ)という。


 嘉永元年(一八四八年)
計五歳のころ父市兵衛が小浜藩のある事件により浪人するところとなり、
父の行方が分からない時期があった。

母、末子はやむを得ず計と乳飲み子の里(サト)を連れ
実家神子浦細川太仲家にて暮らすこととなる。




若狭町神子(常神半島)


 それから約五年、
ようやく父市兵衛が京都に住んでいることがわかり、
母末子は幼子里をつれて京都に出、
その後ようやく十歳になったばかりの計が
神子浦から熊川、
朽木を通り京都に出て父母と暮らすようになったのである。


 しかし、浪々の身となった市兵衛一家である。
貧しい家計を助けるため計は初代幾松の養女となり、
十三歳の頃、二代目芸妓幾松として座敷に出ることとなった。



 ときあたかも幕末、勤王・倒幕の嵐が京都の町を駆けめぐる時、
お客の中に勤王の志士たちも多く、
そんな中で伊藤俊輔(後の伊藤博文)、桂小五郎がおり、
桂小五郎後の木戸孝允と結ばれることとなった。
時に幾松一九歳の春である。

その後は、夫桂小五郎をよく助け新撰組隊長・近藤勇の追及にあった時には
機転をきかせ桂小五郎らを逃がせたと伝えられている。





明治維新の大業なるまでは
夫らとともに身を危険にさらしつつ大変な苦労の連続であったと思う。
明治維新の大業成就し、
桂小五郎改め木戸孝允は参議として明治新政府に務めることとなった。


幾松もいったん岡部家の養女として名を松子と改め、
木戸孝允夫人として内助の功もあり、
木戸孝允病気となるや
日夜看病等に努め、
明治十年五月二十六日、逝去されるまで看護につくした。





木戸孝允事跡碑文




その後はただちに剃髪「翆香院」と号し、
明治十九年四月十日、四十四歳の生涯を静かに閉じたのである。





 京都市霊山墓地には、明治維新で活躍した志士たちが多く眠っている。


 坂本竜馬・伊藤博文等々の墓があり、
・松子夫妻の墓は墓地の中腹にあり、
墓石に「内閣顧問勲一等贈正二位木戸孝允之墓」
その横に「贈正二位木戸孝允妻岡部氏松子之墓」と
刻まれている。




幾松の墓



 墓地公園下の事務所で
「若狭町三方から来ました。」
と挨拶すると、
「若狭の方も時々お参りになります。幾松さんは若狭小浜の出身ですから」
とのこと。
「幾松さんは幼少の頃若狭の神子浦で育ったのですよ。」
と話したものである。






 「幾松」こと木戸松子が若狭小浜に生まれ、
幼少の頃、神子浦細川太仲の孫として育ったことを知る人は少ない。



少女のころ、家計を助けるため芸妓として働き、
更に明治維新の志士桂小五郎(木戸孝允)の妻としてよく夫を助け、
明治維新の蔭の功労者として活躍した幾松、
こと木戸松子の生涯をもっと顕影できればと願っている。 

                                                   
                                   
吉田 久吉
      


美しい若狭を守り伝えたい・・・