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文人細川幽斎をめぐる人々



 三渕晴員と清原宣賢の娘との間に
宮川尼、細川藤孝、紹j(三男)が生まれた。
 清原宣賢は晩年越前一乗谷より小浜へ来り栖雲寺で守護、
武田一族に『孟子』を講義した記録があり、学者の名門である。



 宮川尼は藤孝の姉で武田六代信豊の弟信高の室である。
信高は宮内少輔、宮川霞ヶ城主であり、その子英甫永雄は
建仁寺二九二世住持となり、狂歌師雄長老として名を残している。
宮川尼は藤孝のように歌人故実のものであり『醒酔笑』に
 「軍役の用にもたゝぬ老の尼の百の石をばいかでひくべき」を残している。



 藤孝は幽斎と号し、忠興(三斎)と共に本能寺の変直後に
明智光秀にくみせず細川家を守り通した大名家として
後年までの基礎をかためた。藤孝が永禄十年頃、
妻の里熊川城にて連歌を咏んでいる。



 「神無月雪をみやこのしぐれかな」
 「ちりのこる枝や昨日のうす紅葉」
 「うき草の心をゆつる落葉かな」



 古今伝授や、歌学者であり、文武兼備の方である。
 幽斎は南禅寺天授庵を寄進し、墓は妻麝香と共に同寺にある。
 紹j(三男)は出家をして玉甫と名のり、
大徳寺高桐院の開山となった。
 高桐院は細川忠興が寄進したもので、同寺には忠興やガラシャの墓がある。




 藤孝が生まれたのは天文三年(一五三四)四月二十二日であり、
その誕生に際してはこみいった事情がまつわっていた。
というのは藤孝の母は足利十二代将軍義晴の夫人であった。
将軍落胤説である。




 十七代細川護貞著『細川幽斎』に
藤孝は将軍義晴の子と明記されている。



 文化的な土壌を達成した細川家の若狭での光彩は末永く守り続けたいものである。
   



                                  上中の語り部 宮下市郎


美しい若狭を守り伝えたい・・・・・・