若狭会古


     若狭会古とは、、、     
   今のなお千年以上受け継がれている若狭小浜の伝統文化・生活文化に出会って欲しい、
という思いを込めて付けられた名称です。
若狭小浜には、それに応える無数の優れた文化財と 
美しい民俗が残されています。
若狭の伝統文化の豊かさを知って頂きたいと思います。

                                     (小浜市民憲章 前文より)

 



『象が行く』その8



 象が歩いたであろう道を推理してきましたが、具体的な史実を書くことで、
その存在を改めて明らかにしたいと思います。


 元亀元年(一五七〇)、織田信長は朝倉義景を討つため、敦賀に兵を進めました。
しかし、浅井長政が、挟み撃ちを企てたます。これを救ったのが、
信長が妹のお市と言われています。袋に小豆を入れ、
両端をむすんでこの危機を知らせたのでした。


 信長は、秀吉をしんがりにして、京に逃げ帰ります。
この時、徳川家康は小浜にいました。彼も逃げ帰るのですが、
その様子の記述が、「若狭郡県志」にあります。


「元亀元年織田信長公於越前敦賀 朝倉氏与戦 東照大
神君 亦其行 従 玉 其帰路大神君小浜蓮興寺 宿玉 而
後根来村自針畑峠 経朽木谷 出 而入−洛 玉 云 」


 この本の信憑性については、評価されてないところもあり、細部で問題もありますが、
家康軍がここを越えたのは事実のようです。


また、相当な兵力が動いたとするのが、この場合は妥当であろうと思います。
したがって、道としての存在は確かなものだったと言えます。 
                                        (治)



   


美しい若狭を守り伝えたい・・・・・・