「・・・栄昌尼公常高院(お初の方)、
若狭に帰り雲浜城(小浜城)に栖休す。
歳あり、又、武江(江戸)に東遊して、
大将軍秀忠卿、家光公に会謁す。
和睦欺謀の事を語りて、半ば恨み半ば喜ぶ。・・・」
(常高寺開基伝)
関ヶ原の戦い、大阪冬の陣、夏の陣と続いた
戦乱がようやく収まり、世は徳川幕府のもと
太平へと向かいつつあった。
それはそれとして
常高院にとっても喜ぶべきことではあった。
が、
そのために犠牲になった
姉の淀君や甥の秀頼
さらにさかのぼって、
彼女が幼い日に非業の死を遂げた
父の浅井長政や母のお市の方の
事を思えば(「・・・恨みは捨てなければ・・・」)
と思いつつも暗憺たる心境にならざるを
得なかったのではあるまいか。
そうした父や母の供養のため、
又夫の高次の菩提のために、
息子の忠高が領する若狭の地に
一ケ寺建立を発願したのも
自然の成り行きであったろう。
そして 数々の歴史の動乱を経た常高院も、
後瀬山西麓
常高寺の境内地にある高さ
四メートルの宝筐印塔の
下に眠っている。
九月二十七日は常高院忌。
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常高寺山門 |
お初の方(常高院) |
常高院墓塔(常高寺) |
『四つ目結(よつめゆい)』について
京極家再興の祖といわれる京極高次は、
江戸時代初期の小浜藩主であります。
高次に嫁したお初の方(淀君の妹・後の常高院)が発願して
建立した常高寺では、
現在も寺紋として
「四つ目結」が使われています。
「四つ目結」は、近江源氏に始まり、
かって琵琶湖北部一帯を支配した
佐々木・京極 一族のシンボルでありました。
「目結(めゆい)」とは、鹿子絞りのことであり、
結とは文字通り「結び合うこと」であります。
即ちそれは
「人と人との団結・融和」を
意味するものであります。
お初菩提寺 常高寺住職 澤口輝禅
美しい若狭を守り伝えたい・・・・・・