問丸本阿彼帝より日本の国王への進物等。
生象一疋。黒。山馬一隻。孔雀二対。
鸚鵡二対。其外色々。
彼船同十一月十八日大風に中湊濱へ打上られて破損之間。
同十六年に船新造。同十月一日出濱ありて渡唐了。」
(若狭國税所今富名領主代々次第)
「・・・或書載応永十五年六月二十二日
南蛮船来干小浜使臣齎黒象一匹、山馬一隻、
孔雀二対、鸚鵡二対来而携之到
京師献将軍義持公是蛮国主亜烈進卿之所献者也。
同年十一月使臣乗船出
小浜同月十八日風浪大起於中湊濱破損船。
同十六年造船而十月朔日出小浜帰蛮国
又同十九年六月二十一日
蛮船二艘来干小浜同八月二十九日帰蛮国。・・・」
(若狭郡県志 第二巻 山川部)
象が小浜にやってきた。今からほぼ六百年前、日本で初めてだ。
スマトラ島(インドネシア)のパレンバンから
黒潮と南風(はえ)に乗ってはるばる小浜に遣って来た。
小浜の人たちはどれほど驚いたことだろう。
意味不明な言葉を話す水夫達、肌の色も服装も異なる異邦人達・・・。
連れている生き物達・・・。
食べる物も飲む物もすっかり異なっていた。
ことに当時、佛画や彫像で接しているはすべて白い象であった。
だが生きて動いている象は黒い。
まずその黒いのに驚いたことだろう。
それが「黒」だとか「黒象」という言葉になって
古文書のなかにあるように思われる。
応永十五年(一四〇八)五月に三代将軍義満公が死に、
直後の将軍義持公に象は献上されていった。
帝王の亜烈進卿(アラジンきょう)が日本と親交をむすぼうとしての
進物であったのだろう。
山名暢雄
美しい若狭を守り伝えたい・・・・・・