佐久間艇長をご存じですか?
皆さんは佐久間勉という人物をご存じでしょうか。
おっ、その名前なら知っている、聞いたことがある、
という方はおそらく昭和ひと桁以前生まれの方だと思います。
戦前までは修身の教科書に「沈勇」として掲載されていたからです。
佐久間勉について少しご紹介をしたいと思います。
佐久間勉は明治12(1879)年9月に福井県三方郡八村(現若狭町)で
前川神社神官佐久間可盛の次男として生まれ、
明治34年海軍兵学校卒業後、数隻の艦艇乗務を経て、
明治42年に国産初の第六号潜水艇の艇長を命ぜられます。
そして明治43(1910)年4月15日広島湾新湊沖での半潜航訓練中、
不測の事故により沈没してしまいます。
艇長以下13名は、迫り来る死と直面しながらあらゆる手段を講じて
最後まで懸命に艇を浮上させようと試みましたが、
艇は浮上しませんでした。
覚悟を決めた艇長は手帳に遺書をしたためます。
事故から2日後に艇が引き上げられると、
なんと乗組員全員がそれぞれの持ち場についたまま息絶えていました。
(第六潜水艇の模型)
当時、潜水艦の事故は海外でも起きていましたが、
ハッチを開くと、
我れ先に逃げようと出口に殺到して息絶えているということがあったため、
この事実は新聞を通じて、
国内はもとより世界の知るところとなり大称賛を浴びました。
アメリカでは国会議事堂大広間の陳列棚に
「独立宣言」と並んで艇長の遺書が英訳を添えて
展示されたということですし、
英国海軍では現在もなお教訓として活かされています。
「七つの海の本当の話」 ハトソン 著作
司令塔からもれるかすかな光をたよりに書き綴られた遺書には、
まず艇を沈め部下を死なせてしまったという自身の不徳を詫び、
乗組員一同最後まで職責を全うしたことを讃え、
事故後の艇内の状況が克明に書き綴られています。
呼吸も苦しくなる中、最後は力を振り絞って、
部下の家族が将来困ることのないようにとの気遣い、
お世話になった人々への報恩感謝の気持ちを綴っています。
佐久間艇長の遺書
死期が迫っているにもかかわらず、
沈着冷静でなおかつ人に対する優しさや
思いやりも忘れなかったのです。
このような行動は一朝一夕に出来るものではありません。
日ごろからの真摯な心がけと努力の結晶に他なりません。
片道十数`の道のりを毎日歩いて通学して
勉学に励んだり、家計に負担をかけまいとして、
友から借りた教科書をすべて手書きで写して使ったなどの
若き日のエピソードにも裏打ちされています。
小浜中学校時代に使用された教科書
佐久間勉は決して英雄豪傑肌ではなく、
自分に厳しく人には優しい思いやりの深い人だったのです。
ともすれば武士道の鑑として扱われたり、
軍人精神高揚のために利用されたこともあり、
真の遺徳を偲び顕彰しようとしても様々な抵抗があったりしますが、
それは佐久間勉の本意に悖ることです。
私も同じ郷土に生を受けた一人として、
佐久間勉を誇りに思うと同時に、
その人間性は足元(それ以下)にも及びませんが、
佐久間勉の遺徳を後世に伝えていかなければ、と思っています。
皆さん、機会があればぜひ一度、
佐久間勉が生まれ育った若狭町にお越しいただいて、
艇長の生き様に触れられてみてはいかがでしょうか。
艇長の生家近く、
昨年の殉難百年を機に完成した
佐久間記念交流会館にてお待ち申しあげております。
館内には遺書の複製(本物は関東大震災で消失)や
艇長の遺品などが展示されています。
佐久間記念交流会館
ここからはまったく余談ですが、
若狭町は名勝三方五湖や、
重要伝統的建造物群保存地区熊川宿など、
自然と歴史・文化のあふれる町です。
また古代より「御食国若狭」として、
朝廷に食材を献上しており、海の幸、山の幸の宝庫でもあります。
重ねて皆様のお越しをお待ち申しあげております。
美しい若狭を守り伝えたい・・・・・・