耕養庵は 西依成斎遺墨展を 応援します!







順造館と望楠軒
小浜藩校順造館は、
歴代京都望楠軒の講主を教授として招いています。

西依墨山は、順造館の初代ですが、
前任の藩儒小野鶴山も望楠軒の講主でした。

望楠軒の学問がそのまま順造館に移ったといってよいでしょう。
小浜藩主は、望楠軒の維持費を師跡料として
毎年援助していました。

 
書と印



書の作品の右肩に、
自分の好きな言葉などを
印にした「引首印」がおされます。
 
成斎の場合宋人・謝 得の詩の一節
「雪中申松柏」をしばしば好んで用いています。
これは、望楠軒学が最も尊重する

『靖献遺言』の中に出てくるもので、
どんな困難ににもめげず、節を屈しない勇気を
雪の冷たい中でもその色を変えない松や柏に喩えたものです。
成斎自らの信条となっていた言葉てです。
 

小浜の魚を賞味

小浜藩校順造館教授で養子の、墨山や門人に宛てた、
成斎の尺績(せきとく=書簡)が、たくさん残っています。
その中には「いさざ」を醤油入りにして送るという、
道中腐らないように送る人の心遺いや工夫が見られます。
また、鯛は酒と薄醤油で煮て食べたというものもあります。
その他、シイラ、焼鯖やアユなども送られ、
京都の門人や周りの人に「すそ分け」する様子も書かれています。


威斎こぼれ話

成斎、「節用集」を食べる

成斎は、畑仕事をさぽって本ばかり読む少年でした。
ある時それがため勘当されます。

それでも家を出るとき、
当時のミニ百科事典であった「節用集」を
懐に入れることを忘れませんでした。

そして、神社の縁の下で読んだところからちぎって食べたそうです。
 

成斎、角カ(すもう)を好む

成斎は、角カ好きで体格の優れた人でした。
七十歳を超えた頃のことです。

地方から若い学者が訪ねてきました。
話の途中で、「角カは好きか」と尋ね、
「好きです」の答えを聞くやいなや、

その若い学者を抱えて、
部屋を二、三回もまわったということです。


 






  
成斎と小浜藩の門人たち
浜藩主が、小野鶴山を藩儒として招いて以来、
小浜と望楠軒の結びつきも強く、
望禰軒で学ぶ藩士も増えました。
文献に残っている成斎の門人には、
藩主の酒井思貫侯をはじめとして
次のような名前が見られます。

組頭 干百五十石 深栖典膳
小浜老役 六百石 岡新左衛門
  同    四百石 宮地瀬兵衛
       五百石 足立七左衛門
小浜町奉行二百石 添田弥兵衛
三方郡代官七十石 北川長次郎
御先手馬廻八十石 坪内吉弥
熊川蔵目付八十石 富川正蔵
        五十石 間宮硲
身分の高いところから低いところまであり、
広い層に旦って学間が広がっていたことがうかがえます。

山口春水の役割
望楠軒の著林強斎の学者としての偉大さを理解し
早くから師事し、
小野鶴山を小浜藩儒に推薦したのは、
小浜藩士山口春水でした。
彼のこうした行動がなかったら、『崎門学』や『順造館』は、
若狭とは無縁だったでしょう。

こぽれ話
九十歳の時に若狭で元日を迎え、モチ九個を食ぺています。
酒はあまり飲まなかったようですが、
大食漢で、一度に鴨二羽を食ぺたり、
猪をザル一杯食ぺたと書かれた尺績があります。
腹は布袋のように突き出ていたようです。







 美しい若狭を守り伝えたい・・・・・・