大老をも動かした若き義民




苦境におかれていた農民を
救うために決起した庄屋の中で、
圧左衛門はまだ十六歳の親孝行な少年でした。
投獄され痛めつけられ、
ついに礫にされるまで、
彼は初志を捨てずに
年貢軽減を要求し続けましたが、
それは実に十三年にもおよぶ闘いでした。





1.築城と年貢の増微
若狭国八万五千石の領主 京極高次
慶長6年(1601)雲浜の地に新しい小浜城

2.繰り返される嘆願
酒井忠勝が若狭小浜藩主
寛永15年(1638)11月 忠勝 大老となる

3.庄左衛門の決断

4.強訴の罪と磔の刑

今はこれまでと
最後の手段に出る決意をも固める代表格の庄屋の家々に、
小浜藩の捕方が到しました。
嘆願の代表者たちは、強訴の罪により逮捕され投獄されてしまったのです。


新道の庄屋庄左街門のもとにも、もちろん捕手が駆けつけました。
ちょうどそのとき、庄左衛門は家にいて、
母の前で謡の「田村」の曲をうたって聞かせていたところであった、
といわれています。 
若くして父を失った庄左衛門は、母をとても大事にしていました。
母もまた、わが子の良い理解考でした。

直ちに彼を召し捕ろうとする役人に向かって庄左衛門は、

「今しばらく。母を慰めるためのこの一曲、
うたい終わるまでお待ちくだされ」

と、願いました。

まるで芝居の名場面を見るような情景だったようですが、
しばしの猶予を与えた捕方たちが見守ることも知らぬ気に、
庄左衛門は、朗々と謡を続けるのでした。
このような日のあることはすでに覚悟しており、
また、これが母への最後の孝養となることをも予測していたのかもしれせん。

それ以後、数年間を竿獄につながれた庄左衛門は、
母や弟の待ちわびるわが家へ再び帰ることはなかったのです。




5.今も滅びぬ義民の魂

近代に入ると、・・・・・
新道の村に隣接する熊川に、松木神社が創建され、
翌々年には義民館が建設されました。
四季を通て美しく見晴らしのよいこの境内は、
不思議にも、江戸時代に小浜藩の年貢米を収納した米蔵の跡地が、
たまたま選ばれたのであるということです。

この松木神社をはじめ、正明寺や生家松木家にあるお墓、
また日笠に建つ記念碑の前には、今も全国から詣でる人が絶えません。
道理を貫き、人問みんなの幸福を求めた義民松木庄左衛門の魂は、
いつまでも減ぴることなく、生き続けています。






美しい若狭を守り伝えたい・・・・