第77回  若狭の散歩道ミニ講演会
平成19年1月28日(日)




小浜湾西側半島部

 ~飛梅の里~
大島の歴史と文化について


前大飯町文化財保護委員会会長 猿橋勝先生



1 はじめに




2 島の地理的条件

(1)  天平19年(747)「大倭国大安寺流記資財帳」に

「若狭国乎入郡島山佰町四至皆海 右飛鳥浄御原御宇天皇 歳次癸酉納賜者ナリ」

浄御原天皇(天武天皇の2年・673)のことがらである。
鳥山百町を大安寺の荘園として施人されたという記録である。

(2) また、鎌倉時代の「太田文」では、泊・勝海方面を含めて「志方郷」としている。


小浜湾は、大島と内外海半島の両突端が恰も巾着の口の如く
幅2.5㎞の「間口」を残して囲まれた湾になっています。
古い時代、日本海を航行して若狭湾を通過する舟は
思わず休息を求めてこの「間口」へ誘い込まれるように舵を向けたことでありましょう。



小浜湾の間口

そのために、大島、内外海の両半島には
海を経て伝わったと考えられる
古い歴史文化を発見することが出きるのではないかと思われます。
大島長楽寺には、宇治平等院鳳凰堂に祀られている定朝の阿弥陀如来坐像より
座高が60~70㎝低い阿弥陀如来坐像があります。
作者は不明ですが平等院のそれに最も近いといわれる
定朝様式にならっての阿弥陀如来像(国風の彫刻様式・桧の寄せ木造り)で、
平安時代12世紀の中央仏師の作といわれています。



このような大きな仏像が
古い昔にどのようにして都からこの島へ運ばれてきたのでしょうか。
大島には、
このほかにも当時の都とつながりを感じさせる
歴史文化がいくつも残されているのです。




一方、内外海半島の先端に近い小浜市泊においても、
若狭彦神社の祭神「山幸彦」と同姫神社の祭神「豊玉姫」が
竜宮からの道すがらここの地で一日泊まってから
それぞれの宮(上・下宮)へ帰られるという。
それで「泊」という地名になったとか、
「泊の若狭彦姫神社(日吉大明神)」にまつわる伝説であります。


3 「慶松山長楽寺西光院縁起」延宝5(1677)等によって



慶松山長楽寺西光院縁読み下し文)

夫、当寺は用明天皇の御宇、上宮太子の創建なり。 然うして、太子 偶
此の嶋に遊び、七間四角の堂を造り長七尺の弥陀を刻み而安焉。天皇大いに
之を嘉ミシ田戸を納め僧坊を置き勅して西光院の號を賜う。尓シテ自り世々の天子叡信殊に
浅からず。就中、桓武天皇勅して鎮守六所の神を置き、所謂、天照太神宮、熊野
大権現、春日大明神、住吉大明神、八幡大菩薩、上下大明神
是也。祭祀毎歳七新の民をして今迄 これを受けしむ。旃に繇り寺院覃渥に沾い、山門
        日に輝きを増す。又、醍醐天皇の時に丁り、菅丞相道真公、偶、此の島に来遊し、自ら
肖影を刻み長 坐して八寸可 叢祠を王城の艮に置き永く賓祚を守らんことを誓う。
..........~






(1)菅公『飛梅伝説』の歴史とその実態を考える


「向 若 録」

千賀玉斎
(小浜藩酒井家二代忠直公の藩士・儒学者)

両 子 島
小浜の西北海口にあり。而して贅して勝海浦に付く。
其形両児の如く頭を駢べ或は云う、諸攣生の児に譬う。

菅 神 社
 菅神社両宇あり。一宇は治城の郭内にあり、其地を竹原と云う。
一宇は治城郭外の西後瀬山の南麓にあり、倶に雲浜天神社と云う。
伝えいう菅公曽てこの地を食し、時に来たり県を行る。
衣冠を竹原邑に脱し舟を泛べ大島に到る。
而して後棹を廻し後瀬浦に上る。
後人行履の歴る所に就いて社を建て之を祀る。
故に大島にも亦菅神社と云うあり。
菅公此地に来る証実なしと雖亦此事有るべからずとなさず。
旧籍を考うる逞あらず。




「向若録」によれば
 陸路を都→小浜(小浜湾を舟で)→大島→小浜→若狭湾→西海へ向かうと
いう説が成り立つ




天に向かって咲いた飛び梅 2月24日


 随行して太宰府へ行ってからも仕えた味酒保行(うまさけやすゆき)は
師が歌まで詠んで別れを惜しんだ様子を見て、
涙ながらに何本か根分けしてそっと荷物の中へ忍ばせたのではなかろうかと考える。
そして、塩の道、鯖の道を逆に歩いて若狭へ辿り着き、
かさ張る荷物の重さに耐えられなくなって大島宝楽寺で休んだときに
一本植えたと考えてみたらどうだろうか。


  そのように考えると国分寺のある小浜を中心に若狭で
しばらくいてご自身の像を彫ったりして残し、
若狭湾から西へ向かわれたのではないかと推察する訳である。


大島天満宮

ちょうど『大島』と『備中羽島』と『周防の勝間の浦』の三ヶ所に
味酒保行は根分けした梅のかさ張る重い荷を
植えて行ったのではないかと考えることが出来るのである。
そうすると、
『道真が太宰府に流される途中、
大島に立ち寄って宝楽寺の庭に紅梅を植えた。
この飛び梅は、九州までの途上、
とびとびに三ヶ所に植えたものの一つである。
よって飛び梅という。』
という説が今日的に一番正しいのではないかと思うのです。



大島宝楽寺の飛び梅




大島宝楽寺の飛び梅(紅梅)
みごとな咲きぶり 3月24日



若狭観音霊場二九番 宝楽寺 観音堂
かなり古木の白梅 2月10日






①「若狭遠敷郡誌」によれば、
竹原の天満神社のはじめのところに書かれており
同様のことが「若狭郡県志」にも書かれている。
つまり、神霊として当地へ表れたのである。



竹原の天満宮の牛
 道真公は丁丑(ひのとうし)の年生まれ




 ②「小浜市史」では、
 後瀬の滝天満宮のことを述べているのであるが、
ここでも、『神魂都へとはせ給う時、長楽寺に兼留あり』などとあって
神霊説が述べられている。
因に彫刻の大きさにつ いては、
「旧小浜町誌」や「若狭郡県志」で一寸八寸としている。

画像については、かつて国主京極宰相の室常高寺院禅尼が
画像の表装を修理されて
再び新しくなったということが両誌中に述べられている。



滝天満宮


③大島の場合は、

「慶松山長楽寺西光院縁起(延宝五年・1677)」に、
「醍醐天皇の時に丁り(あたり)管丞相(かんしょうじょう)道真公、
偶(たまたま)此の島に来遊し、自ら肖影を刻み、長(たけ)坐して八寸可(ばかり)・・・と」あり、
一般に『管公お手植えの梅(紅梅)』といっているが、
 『宝楽寺の縁起には天暦二年(948)梅樹一夜のうちに飛び来たり当寺境内に生い繁れり』
とあるように、道真公が没した延書三年(903)をずっと通り越した年になっている。

とすれば、他の文書や史誌と同様に神霊のなせる業であったのだろうか。
情報豊の希少な時代ではあっても余りにも不思議である。
古い時代の人々にとっては、神霊がなせる業のほうが
ずっとずっと灼か(あらたか)で誇れる事だったのかもしれない。


(2)大島の地名やくらしの文化から歴史を辿る






松ヶ瀬台場跡平面図 大砲レプリカ
砲身長 3,181㎜

         
文政7年雲濱城図




ありがとうござました。これかも、何とぞよろしく御指導ください。

               感謝申し上げまして 猿 橋  勝






美しい若狭を守り伝えたい・・・・