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 千石荘障壁



昭和五十三年四月刊の「日本美術工芸」(雑誌)に土居次義氏が

「若狭路の鶴沢深山」という興味深い小文を書かれている。



西津福喜旅館の千石荘書院二た間の壁及び襖絵で、

北を一の間、その手前(南)を二の間とすれば、

それを仕切る襖の北側の竹鶴図以外の壁面、違棚、二の間入口の襖の

花鳥図すべて狩野山楽を祖とする京狩野とは別派の江戸派、

狩野探幽の有力門人鶴沢探山の筆であること、

鶴沢派についての研究調査はあまり進んでいないが、

土居氏はその鶴沢派殊に始祖鶴沢探山に深い関心を寄せていて、

千石荘で図らずも多数の探山筆に接することのできた喜びが書かれているのである。



幸い床の間等の探山筆山水図は健在であるが、

中仕切りの襖絵の損傷はひどいのが気にかヽり、

襖北面の竹鶴図も狩野常信の秀作であり守って貰いたい気持を切に抱いている。



千石荘はかつて古河屋の別邸護松園、

昭和三十一年福喜に譲渡された。


句誌 「ほととぎす」 同人           森田 昇 










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