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  佐久間艇長の肖像



佐久間艇長は世界の偉人





昭和六十二年四月十五日、始めて英国大使館付海軍部官、R・H・S・トンプソン大佐が、

顕彰祭に参列し、挨拶された。

「佐久間艇長をして、世界の偉人たらしめたものは、

沈んだ潜水艇内で死ぬ間際に自分自身が書かれた遺書であります。

艇長が軍人として、如何に責任を重んじ、

部下の遺族に思いを寄せ、上官、教師に謝辞を述べるなど、悲劇的でありますが、

英雄的最期の崇高なる至誠に、感動致します。

私が常に尊敬しているネルソン提督の出身地、バールハム・ソープや、

東郷元帥の出身地の鹿児島と同様に、佐久間艇長の、郷里のみなさんが、

「艇長並びに乗組員の遺徳を顕彰されていることに、深い敬意をよせるからであります。」

と述べられました。




(佐久間艇長の遺書)





「君死に賜うことなかれ」の和歌で、

反戦歌人と言われた、与謝野晶子でさえ、艇長の死を悼み、


海に入り 帰りこぬ人十四人

いまも悲しきもののふの道



いたましき艇長の文 ますら男の

むくろ載せたる船あがりきぬ




と歌い、揚げられ曳航してきた潜水艇の、鉄扉を開けたときの岩国の石が、母校三方小学校の

銅像の側に建てられ、『勉学・努力・思いやり』の

艇長の遺訓を鏡として、銅像と共に永遠に賞賛されるでありましょう。




海上自衛隊舞鶴地方総監、泉 徹海将は、

「二宮尊徳翁の銅像でさえ、小学校の庭から姿を消していく時代に、

佐久間艇長銅像が建てられ、児童達を見守っておられることは、流石艇長の出身地である。」

と激賞されました。



(艇長をしのぶ音楽会・海上自衛隊舞鶴音楽隊)
写真提供   若狭町教育委員会


歴代の総監は、必ず艇長顕彰祭に参列されているし、

英国大使館付海軍部官の、

トンプソン大佐 サイモン・チェルトン大佐 ニール・ロバートソン大佐と、

呉の顕彰祭と隔年にご参詣いただいている。



(英国防衛武官サイモン・チェルトン海軍大佐)
写真提供   若狭町教育委員会



終戦後は、温交会同志と始めた顕彰祭で

あったが、日赤奉仁団の協力を頂き、海交会の方々や、

郷土の偉人として尊敬する町民各位、児童生徒に至る多数の参列者となった、

佐久間艇長尊敬の伝承と、郷党各位の誠実眞執な姿を、

舞鶴地方総監 泉海将の感動を受け、今年から弔銃の儀式も式順の中に入れて頂き、

益々尊厳な顕彰祭となるであろうと信じ、改めてお礼を申し上げたい。





(弔銃発射)

写真提供   若狭町教育委員会



佐久間艇長に関し、感銘の辞や、激賞の名文を試みようと雖も、文豪夏目漱石をして、

死に直面し、幽明の境にあっての遺書こそ

「文芸のヒロイツク」と言わしめた一語に尽きる。




偉人佐久間艇長のふるさとに、

生を享けたことの喜びを、報恩と伝承に傾注する義務感が、ひしひしと迫ってくる。




                                    

 語り部

前三方町佐久間艇長顕彰会会長
                   小堀源治郎










旧海軍の第六潜水艇長だった佐久間大尉は、
明治43年、山口県新湊沖での訓練中に艇が沈没。


最後まで部下に指示を出し、部下の家族へのおもいやりの言葉や
沈没の原因などを記した遺書を書いたことから
「沈着勇断」
と称されています。






(第六潜水艇の模型)
写真提供   若狭町教育委員会



平成18年4月15日(土)
  六号神社及び佐久間勉艇長遺徳顕彰碑前

(1)六号神社神事
(2)佐久間艇長を偲ぶ音楽祭
(海上自衛隊舞鶴音楽隊による演奏)
(3)遺徳顕彰祭式典
    開式の こ と ば 
    国 歌 斉 唱
    祭 主 祭 文
    来 賓 挨 拶 
    英国武官スピーチ
    奉 納 吟 詠
    弔 銃 発 射
    献     花
    閉式の こ と ば
(4) のこすことば文学賞授与式
(5) 直   会





小浜といふ町は・・・・・








写真提供 平田長市郎氏



美しい若狭を守り伝えたい・・・・