佐柿國吉城築城四百五十年


美浜町教育委員会 学芸員  大野康弘先生




<国吉城の位置>




美浜町は、旧若狭国(わかさのくに)の東端部に位置し、
旧越前国(えちぜんのくに)との国境に接しています。

国境の関峠を越えて佐田、太田、山上の集落を過ぎると、
御岳山(おたけやま)から天王山(てんのうやま)に連なる山系が南北に立ちはだかり、
この山系を越える唯一の峠として椿峠がありました。

このように、越前国から若狭国の中に入るには、
幾重もの峠を越えなければならず、まさに若狭国の東堺を守る天然の要害となっていました。





<築城の背景>

 その椿峠の喉元に位置し、丹後街道と椿峠を眼下に見下ろす
通称”城山(標高197.3m)”に聳え立つのが戦国時代の山城である国吉城でした。

弘治2(1556)年、若狭国守護大名武田氏の重臣であった
粟屋越中守勝久(あわやえっちゅうのかみかつひさ)が
若狭と越前の境目の城として古城跡を改修して築城したといわれています。



<国吉籠城戦>

 若狭地方に数多く築かれた中世城館の中でも国吉城の名声を高めているのは、
永禄6(1563)年、国吉城に押し寄せた越前朝倉氏の軍勢を数年にわたり撃退しつづけ、
壮絶な籠城戦を展開した”国吉籠城戦”であり、城主粟屋勝久の勇名とともに伝わっています。







信長、秀吉、家康が天下へ飛躍した佐柿国吉城



 元亀元年(1570)4月、信長が進み、家康が戦い、秀吉が守り、
そして、山内一豊が功名を上げた越前金ヶ崎城・天筒山城の戦い。
この時、織田方の最前線の城として、越前攻めの戦略が練られたのが、
美浜町の佐柿國吉城(國吉城、佐柿城)です。


 元亀元年4月20日、越前朝倉氏を攻めるため、
京を出陣した織田・徳川連合軍は、近江国に軍を進め、
高島都田中、若狭国熊川を経て、
同月23日、國吉城に入りました。


時の城主、粟屋越中守勝久は、信長勢を倉見峠まで出迎えたといいます。
 信長は國吉城に滞在して越前攻めの戦略を練り、
同月25日、越前国に向けて出陣しました。

金ヶ崎・天筒山の両城を1日で攻め落とし、破竹の勢いで侵攻しましたが、
突然の近江浅井氏の裏切りで撤退を余儀なくされました。
しかし、木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)の殿戦(しんがり)によって
無事退却した信長は、6月の姉川の戦いで浅井・朝倉軍を打ち破ったのです。


 國吉城はまさに、信長・秀吉・家康の三英傑が天下へ飛躍するきっかけとなった城なのです。 

織田信長勢
越前朝倉氏攻め
侵攻図



「信長公記」より






山内一豊が功名を挙げた金ケ崎攻め出陣の城

國吉城は、若狭守護大名武田氏の重臣であった粟屋越中守勝久によって
弘治2年(1556)に築かれ、今年は450年目に当ります。


また、麓の佐柿区は、國吉城の城下町として開かれ、
江戸時代は丹後街道の宿場町として繁栄しました。
現在も、当時の歴史的現風景を至るところに留めています。






火縄銃の演舞 幸若舞の上演


「撮影:美浜町教育委員会」



粟屋勝久 入城 粟屋家紋【花菱に扇】 織田信長 出陣


子供たちが勇ましい武者姿を披露


美しい若狭を守り伝えたい・・・・