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小浜城復元


「小浜城」は何を訴えているか

雲浜のお城のいわれ


「蜘蛛の網」の著者赤見貞氏の説によれば 古事として、
南川と北川が小浜湾に注ぐ三角州、
そこに住む下竹原の漁師たちが
白い砂浜に干し掛けた漁網を見て、
人々はそれを蜘蛛の巣になぞらえ、「蜘蛛の浜」と呼び、
やがては「くもはま」「雲浜」(うんぴん)と呼んできたと言う。

若狭国志や若狭郡県志は
風光明媚な「よろこびの雲のはま」と呼び、
若狭八景は雲浜朝霧と題して,その優美な景勝を謳っている

今を去る丁度四百年前の慶長六年(一六〇一年)、
お初(常高院)の夫 京極高次が、
前領主武田氏の造った後瀬の山城から、
この雲浜の地に若狭を治めるシンボル、
小浜城を築き始めた。
下竹原に住む漁師は、
一キロ以上離れた西津地区に立ち退かされる。
今も西津地区には お城の上流の上竹原地区と
遥かに離れて、下竹原の地名が現存する。
何故、上下の竹原があれだけ離れているのか
私は知らなかった。
現在小浜の広峰神社の祭礼は
 今でも上下の竹原で行われているのである。

城址は若狭路の庶民の血と汗で築き上げられた
貴重な文化遺産である。
小浜城の外堀は西側を小浜湾、南北は川に、
東は両川をつなぐ堀。 四面を水で囲んだ要塞。
全国でも珍しい水城(みずしろ)
まさしく「砂上のお城」だった。
三代将軍家光の姉婿、京極氏二代目の忠高が
工事を引継ぎ、その後
将軍家光の重臣 老中酒井忠勝が
若狭の藩主となり天守閣が完成した。
築城に四十余年を要している。
今 お城は当時の六分の一となり
わずかに天守台と本丸の石垣のみ。
三層の天守閣は、青戸の入江に輝くこと
実に二百三十余年。
いま天守閣に外堀や内堀が存在すれば、
国の重要文化財に指定され、
あるいは国宝になっているかもしれない。
現存する滋賀県彦根城は、国宝である。

世の変化に対する彼我の対応の差であろう。

「お城」は語るだろうか。

別名「雲浜城」の不幸な火災を巡る明治維新の歴史は
今の私達に多くの示唆を与えている気がする。


               福井県立若狭歴史民俗資料館館長  中島辰男



                                                         復元 予想 小浜城
                                                      写真 提供 孫野写真館