大島ほど面白い所はない。
面白いとは興味を引くとか豊であるとの意味である。


地質

島の集落のある部分は丹波古生層に属する大島層(砂岩 粘板岩)であるが
犬見山(和田山。大山)と吉見地区及び先端部の待ちの山は
京都府地方から続く夜久野貫入岩類(輝緑岩や斑レイ岩)
それらは変性作用を受け蛇紋岩となる。


最先端の赤礁崎は赤色ラジオラリヤでこれは対岸の堅見層に連なる。
半島全体が和田の所で繋がった陸継島であり待ちの山も宮留で繋がつた陸継島である。
陸が隆起した証拠となる海岸段丘と思われるのも随所に見られる。



植生

ビワ、ヤブツバキをはじめ、シイ、カシ、ヤブニッケイ、ヒメユズリハ、タブ、トベラ等々の
暖地性植物(照葉広葉樹林帯)が繁茂する。
かって椿油を産したほか豊かな森林資源は
燃料の薪にされ『大島のバイギ』として小浜で重宝がられ、又、収入源でもあった。
これらは最高の景観を醸し出している。



遺跡・吏跡

町内では最も古い縄文中期の青法遺跡をはじめ
宮留、浜禰遺跡などの縄文、弥生遺跡、
又、五世紀からの製塩遺跡、
更には、島内にある四十もの古墳が数千年の歴史を物語っている。
『天武天皇、島山百町を大安寺領として納入される。』
『御一代の仏帝大島に御座され二十四の百姓に官位を許すとある』
に起因する神杜仏閣、文化財、ニソの杜信仰、或いは史跡等々、数限りなくある。
どのような権力が存在したのか?。




これらは大島の豊かさ(生産性)であり、
その豊かさによる中央との結びつきを示すもである。
かって陸の孤島といわれた狭小な地に。
本当におもしろいところである。






その中で島山史跡勝地として詠まれた和歌を紹介する。
(全てではない)


松ケ瀬台場

砲据えて世の仇浪を鎮めたる 跡ぞ残れる志摩の松が瀬

松ケ瀬の磯打浪に往時の 砲のひびきのしのばれぞする

(伝記) 安政年間旧藩主酒井公此処に台場を築きたるなり。
即ち黒船防御の為なりと。

海士崎台場

大砲を据えし跡とて今も世に 名をぞ伝ふる志摩の海士崎


(伝記) 松ケ瀬と同時に築きたる砲台跡なりと


望楼跡

窺をなす艦やよすかと看守し 櫓のあとの残る山の峰



神木飛梅 

往昔に神御手づから植えましし 梅は今しも此処に栄ゆる

(伝説) 菅公御手植の梅樹にて、大宰府の梅樹と同種なり。
因て「飛梅」の名ありと






外出が浜晴風

外出浜の嵐にかよふ松の音に なみの鼓も打あいにけり


赤礁岬帰帆
 

追風に帆をはらませてあかぐりに 漕ぎかへる見ゆ蛋の釣り舟

真帆片帆風のまにまにつり舟の あかぐりさしてこぎかへる見ゆ



塩浜タ照 

塩焼きし煙も今は絶えはてて タ日かがやく塩濱の磯

藻塩焼く名のみ残りし真砂地に 日影まばゆき濱のタ映え


桂島秋月 
 
みそらゆく月の御舟のさすかたに かつらの島の影ぞめぐれる


六社夜雨 

霊幸ふ神のみむろの露布きて 雨となりぬる夜半のしづけさ


葉原の水鳥

あわれさは葉原の浦の山陰に あさりつつ鳴くをしかもの声








今よりももっと豊であった大島の自然を感じてもらうために

大島の歴史を端的に知ってもらうために!



『ふるさとの 恵み語れる幸せに  胸ふくらみて 春日過ぎゆく』  ときお

                           大飯町尾内 時岡兵一郎


美しい若狭を守り伝えたい・・・・