藩祖  酒井忠勝公



小浜藩祖酒井忠勝公は、城址の御殿跡に、
明治八年嶺南各地代表の発起で創建された小浜神社の主祭神として祀られている。 




「忠勝公 剃髪時の寿像

写真 提供 小浜市 世界遺産推進室


忠勝は寛永元(一六二四)年から老中十四年、初代大老として十八年、二代秀忠、
三代家光、四代家綱と三十二年間幕閣にあった。
寛永十一年、川越(十万石)から若狭(十一万三千石)に国替えとなった。
藩主二十二年間のうち、小浜への就国は
天守閣の竣工時などわずか四回、通算一年弱に過ぎない。
幕府の重鎮であり、他の大名とは著しく事情が違っていたからである。

 戦前、祖父に教えられた「親苦労する、その子楽する、孫貧乏する」
古い川柳に「売家と唐様に書く、三代目」とも。
これはどの時代にもある厳しい人間観というべきか。



忠勝はその三代将軍家光に仕え、武家諸法度、参勤交代制、
鎖国令など政権の安定に寄与し、家光の遺命により、その死後を取り仕切る。
わずか十一歳の家綱を補佐して慶安事件など政権交代の危機を乗り切り、
見事に江戸時代三百年の平和の基礎づくりに貢献したのである。

 忠勝はつとに学問を好み、儒教、仏教の造詣深く、
後に多くの学者が育つ小浜藩の風土を生む。

また、三河家臣団の総帥として多くの大名からの信望も厚かった。
人柄は謹厳、実直。家光が「自分の右腕」と重用した名臣であった。




 忠勝の没後五十八年に編纂された「玉露叢」、
さらにその四十六年後の「仰景録」に多くの言行が残されている。



 三十四歳の時、秀忠から家光(十六歳)の守り役に抜擢され、
家光を躾る場面がある。夜遊びをする家光を諌めるため、
家光の草履を自らの懐中に温めてそれとなく注意するなど、
身を挺して教育に心がけたという。


 後に、将軍家光が若狭から駿河(十八万石)への国替えを内示すると
「駿河は権現様(家康)の国」と固辞し、しからば甲府(二十四万石)へ
と仰せつけられると「信玄の後とはもってのほか」と固辞した。


 家光は忠勝の若狭への強い思いを見て「若州のつづき江州の内、
志賀、高嶋の二郡はどうか」との三度の内命も「私ごときが厚遇に預かれば、
他の諸臣もとなり、国のためにいかがか」と辞退した。


仰景録は忠勝を「古今に独歩する御忠誠」と述べている。


 しかし、今に忠勝公の像を仰ぐことばない。



 福井県立若狭歴史民俗資料館
                            元館長   中島辰男 






「忠勝公をまつる小浜神社の境内地となっている小浜城址」
写真 提供 小浜市 世界遺産推進室






美しい若狭を守り伝えたい・・・・・