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『小浜藩の台場』


1.台場とは

 「台場」とは、今では聞き馴れない言葉ですが、
幕末に日本各地の沿岸に設置された「砲台」を意味する言葉です。
現在では当時の大砲や構築物が残されている所は極めて少なく、
場所によっては海さえも埋め立てられて、台場が黒船など日本へ来航した
外国船に備えて築かれた砲台であることを知る人はほとんどいないでしょう。

その最も代表的な例は、
東京湾の埋立地の間にひっそりと緑を蓄えて浮かぶ「お台場」です。

この台場は、江戸時代末期の嘉永6年(1853)、ペリーの浦賀来航を契機として、
幕府や沿岸諸藩に海防意識が高まり諸外国の黒船を
打ち払うべく急遽江戸防衛の要として品川沖に11基計画され、
その内7基が完成した海上要塞でした。

まず将軍家のお膝下である江戸湾や朝廷の前面である兵庫や大阪方面と、
その背後に当たる若狭湾が重要視された事もうなずける所です。

しかし、やがて幕府が諸国と条約締結を行い、主要港の開港を行って
次第に撰夷から開国に向かう大きな時勢の流れの中で、
幕末台場も一応の役目を終えていったようです。






2.小浜藩の台場

 緊迫する幕末の時局の中で、小浜藩の対応はいかがなものであったのか。
当時小浜藩が執った海防政策についてまとめられた資料は残されていません。
藩の全般にわたる計画や、実際に据えられた大砲などについても何も語られておらず、
浜藩領内の全ての台場の建設経緯を明らかにすることはできません。

小浜藩は幕末の困難な政局の中で、
第10代藩主酒井忠進が、
京都所司代、次いで老中となり、
第12代藩主忠義の場合も2回にわたって京都所司代を拝命し、
幕府の中枢にあって経験したことがない未曾有の対応に苦慮しています。

この両藩主の幕府要職在任中には、
沿岸諸藩も台場の建設を盛んに行った頃で、
朝廷の北の要である小浜藩においてもしかりでした。

小浜藩が本格的に台場建設に着手したのは、
嘉永4年(1851)敦賀湾に数個所の台場を築いたのが初見ですが、
藩政資料の中に台場の建設図面は全く残されず、
築かれた台場の当時の姿を知り得ることはなかなか困難です。




3.大飯町大島の台場


 近年大島半島の先のオートキャンプ場建設にともない、
赤礁崎を中心とする一帯の測量が行われ、松ヶ瀬海岸に、
上・下二基の砲台と思われる巨大遺構が見つかりました。

この上の方の砲台は、古式の構造を見せる砲台であり、
全長50mの一文字土塁に5門の砲眼を開けており、
図面が残る鋸崎にある台場と同時に築造されたことを端的に窺わせています。

また、この砲台の直ぐ前方に、
土塁が半円形に廻る直径80m余の築造当時の姿をそのまま残した砲台が発見され、
小浜湾内に築かれた砲台としては
小浜の川崎台場に並ぶ最大級の規模を誇るにも関わらず、
酒井家はじめ関係資料に全く記録が見当らない奇妙な遺構でした。

大島半島で発見された鋸崎台場や松ヶ瀬台場は、
国内でも極めて保存のよい実例で、
初期台場からその役目を終える最終形式台場までの
幾つかの形式がそのまま残されており、
また調査に際して鋸崎台場の建設時の図面も発見されるなど、
幕末の小浜藩台場の状況を忠実に伝える遺跡として
全国的にも珍しく極めて貴重です。



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