小浜市街の南にそそり立つ山を後瀬山(のちせやま)という。


枕草子に「山はみかさ山・おくら山・のちせ山…」と並び称される名山である。

万葉の歌人、坂上大嬢は 

「かにかくに人は言ふとも若狭道(わかさじ)の後瀬の山ののちも逢はむ君」

と、燃える思いをこう詠んだ。


大伴家持は

「後瀬山のちも逢はむと思へこそ死ぬべきものを今日までも生けれ」

と返したのである。



四月ともなると椎(しい)の若葉は黄金色に輝く。
後瀬山は若狭を代表するみやぴな山なのである。


時代は下がって大永二年(一五二二)、若狭の守護武田氏の五代元光は後瀬山山頂に城を築いた。
山ろくにあった寺を他に移して跡地に館を営んだ。
濠(ほり)を巡らす館は要さい堅固なものであったという。
山頂の城の石垣は今も残っている。
大きな石をどうやって運ぴ揚げたものなのか興味のわくところである。
山肌には深い堅堀と幾重にも設けた郭の跡が残り、敵の襲撃に傭えたことがうかがえる。


小浜市教委の発掘調査の結果、
山頂の御殿跡から天目茶わんや肩衝などの茶道具が発見された。
武田氏の豊かな文化生活がしのばれる。


永禄九年(一五六六)、将軍となる足利義秋は武田氏を頼って若狭へ来た。
しかし、頼るに値しないことを知った義秋は越前へと去っていった。
武田氏と姻族関係を結んだ越前の守護朝倉氏は、
天正元年(一五七三)織田勢に敗れてその命脈は絶えた。

それから約十年後の天正十隼(一五八二)、
若狭の守護武目元明は近江海津で果て、お家断絶となった。
武田氏滅亡の後、
丹羽長秀、浅野長吉、木下勝利を経て、京極高次が関ケ原の軍功により小浜城主となった。
高次は翌慶長六年(一六〇一)山城を廃し、雲浜(現小浜市城内)の浜辺に築城を開始した。
七九年間、若狭支配の拠点であった後瀬山城跡は深い眠りについたのである。


このほど、小浜市制施行五十周年記念、
市民山登り大会が催され、後瀬山に登った。

道は細く急な坂道を登るのに苦労した。
寄せ来る敵を拒む山城跡なのである。


平成九年、後瀬山城跡は中世城郭の遺構を良くとどめていることから、
国の史跡に指定された。

市では、史跡の保存管理計画に基づき環境整備を進めることにしている。


みやびな万葉の山が、
ふるさとの歴史を語る山として、
市民の前にまた一歩近づいてくるのを楽しみにしている。




若狭の語り部  白石晴義


後瀬山は別に白椿山とも呼ばれる椿の名所です。
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