若狭熊川の民俗行事など

若狭の田の神祭り


 若狭の中央部、小浜市の旧村部から上中町にかけて春の田植えがすべて終わると、
田の神様をお祭りして子供ミコシ(神輿)が繰り出される。

今年も既に五月の半ばから下旬にかけ、また六月上旬にと、
村々によって選ばれた日に、この行事が見られた。

昔から七月初めの半夏生(はんげしょう)を、その時期とする所もあるので、
その日が待たれるが、
それらを合わせて小浜市で二十三カ所、上中町で十五カ所の
計三十八カ所で、
今年もこの田の神祭りが行われることになる。


 私は昭和三十年代から、この行事に特に関心と愛着を抱き、
毎年のように子供ミコシの後について回り、撮影や調査を続けてきた。



(若狭・太興寺)

このミコシ行事の大きな特徴は、どこでもすべて「子供が主役」ということである。
元来は必ず男の子ばかりであったが、
人数減少のこともあり、男女平等の考えも生かされてか、
女の子を行事に加える村も増えてきた。
また、今では父母の力を借りることが多くなっているのも、
やむを得ない現状である。





(池田・検見坂)

 子供たちに担がれ、または引かれて、ミコシは村の各戸を回り、
あるいは田んぼ道をも巡行する。
この時、子供たちは村々で定まったハヤシ言葉を元気に唱える。
小浜市で「チョーサイト」、
上中町で「サイヨーレ」
などという言葉が多く聞かれる。


なお、小浜市の旧遠敷村や松永村では、
ミコシが出発する時に、「カイチョー、ソロタカー」という掛け声がかかり、
これに「チンチン」とか「シツチン」などと応じて、立ち上がる所がある。


 カイチョーとは、貴人の駕籠(かご)や輿(こし)をかく人をいう
「駕輿丁(かよちょう)」であり、
奈良.平安時代の記録にも出ている言葉であった。
チンチンなどは天皇や貴人の先払いをする贅躍(けいひつ)の言葉「しし」の
変化と推定され、ともに驚かされた。

江戸時代の国学者本居宣長が、『玉勝間(たまかつま)』の中で
「田舎に古(いにしえ)の雅言(みやびごと)の残れる多し」
といっていることが、実証されているようで感動した。




(若狭・下吉田)

 ところで、田植えの後に田の神を祭って、子供ミコシが出るのは、
日本全国でも若狭のこの地方だけである、といわれる。
しかも、その分布が、
なぜか若狭の北川とその支流沿いに集中している。
過去には行われていたという数集落についても、同様である。


古来伝承の事柄に秘められた貴い価値を、
無知の故にほうむり去ることのないように更に見出し、
みんなで大事に守り育てて行きたいものと切願する。

この伝統行事の永続を願ってやまない。



郷土史家 永江秀雄氏







(若狭・神谷)

福井県内で平成七年度まで使用されていた
文部省検定教科書『新しい社会』6上には、
巻頭に私の撮影した
小浜市平野の子供ミコシが掲載されていました。








若狭の田の神祭りは、毎年田植えの終了後、
豊作を祈願して田の神を祭る子供神輿が
繰り出されるという珍しい行事で、
全国的にも極めて稀れな行事といわれます。





美しい若狭を守り伝えたい・・・・