若狭小浜領主                   
木下勝俊(長嘯子)と母の謎

                            岡村昌二郎

木下長嘯子と、申し上げてもご承知の方は少ない。
木下勝俊でも知られていない。

 〜木下勝俊。安土・桃山時代の武将、長子と号す。
歌人としても著名。豊臣秀吉の妻の兄・木下家定の長男。
秀吉に仕えて若狭国小浜城主(六万二千石)、
関ケ原の合戦に際して徳川方に属し、伏見城守備の総大将となったが、
戦わずして逃亡、その罪で改易となった。
その後、八一歳で没するまでの五〇年間、京都東山や小塩山に隠棲、
細川幽斎・松永貞徳・林羅山らと交際、文筆の世界に生きた。〜
『グランド現代百科事辞典学習研究社』と、ある。

つまり、木下勝俊は、若狭の国主となり、八年の間若狭を支配した人である。

若狭では出生の謎につつまれた人として、興味深い存在だ。
 ところが〇三年九月に配布された小浜市の『人の駅』マップによると、
一五六九(永禄一二年)、若狭守護武田義統の子・元明と
伊賀守晴員の娘との間に生まれ、四歳で木下家定の養子となった。と
記述されている。



若狭の国主だった、木下勝俊の生母は誰なのか?  

こまでの通説による、松の丸(京極竜子=京極の局)とするのか
『人の駅』マップによる、伊賀守晴員の娘とするのか?

先輩の郷土史家が、解き明かすことが出来なかった
木下勝俊出生の謎と、その生母はだれなのか?。

本能寺の変を契機に、若狭の国主がめまぐるしく入れ替わる時代、
最後の若狭守護職武田元明の悲劇と、
その遺児とされる木下勝俊の生母の謎に迫ってみたい。




木下勝俊の父とされる武田元明について、
若狭に伝わる郷土史「若狭守護代記」の記述を拾ってみる。

武田元明は越前朝倉義景に降伏、
若狭守護職を失い義景の庇護を受けていたが、
織田信長の朝倉攻めで義景の自刃とともに、
放たれて、小浜に戻る。
すでに小浜は丹羽長秀の支配下にあり、神宮寺に蟄居の身となる。 
天正九年に、高浜において三千石を賜り
翌一〇年六月二日本能寺の変で明智光秀のために信長が自刃、
元明は光秀加担の罪を問われて近江海津で切腹させられ、
三一歳の生涯を閉じた。
そのとき、内室は捕らえられ、
二人の男児は行方知れず、女子は病死した。

『若狭守護代記』は、このように記録している。

元明とその妻竜子が結婚したのはいつ?
なのかにも疑間が残る。
神宮寺に蟄居の期間と推察される。

※ 稚狭孝
 (前略)武田元明の子二人あり、肥後守家定養ふて子とす、
松の丸殿のよしみといへり。母は京極氏の女松の丸殿なり。
二人の子、勝俊・利房なり、勝俊は小浜、利房は高浜、
ともに本国を領させ給ふも故有事なり。(以下略)



『長子新集』近世文芸資料2・3下巻(古典文庫発行)による、
木下勝俊(長子)の父を武田元明とし、
母を三淵伊賀守晴員の娘とする説を抜粋してみる。

 (前略)勝俊は、清和源氏に源を発し、
代々北国の名門だった若州武田の末裔元明と
足利将軍家に仕えた豪族の三淵氏の伊賀守晴員女との間に生まれ、
幼時に武田元明の遺児とはなったが、木下家定の養子となり、
秀吉に幼少の時から仕え、豊臣一族の武士として一応の地位を得た。(以下略)

 (前略)木下勝俊は、内実、武田元明と三淵伊賀守との間の子だったが、
幼い時に母に死に別れて、四歳時から杉原(木下)家の養子となる。
その後、元明が後妻に高吉女(松丸殿)を迎えた。(後略)


一六00(慶長五年)勝俊は天下分け目の戦いを前に、
伏見域の守備を離脱して、京に逃れ隠棲す。
 勝俊にとって、伏見城の守備は大役であり、
攻めてきた西軍の大将が、弟の小早川秀秋であったし、
副将の鳥居元忠は、徳川家康の特命を受けた
猛将であってみれば、なす術もなかったであろう。
逃亡とはいえ、命を賭けた敵前逃亡である。
幸いにして、高台院(秀吉の妻)の庇護を得て、命を助けられた。


 さて、勝俊が三淵伊貿守員の娘から誕生したとすれば、
細川藤孝(幽斎)は叔父となる。
木下(杉原)家定の養子となる四歳は藤孝は信長に仕えていて、
羽柴秀吉を超える地位にあった。まして家定が、
勝俊を養って子とするよりも、藤孝が養うべきが、道筋といえよう。
 だが、藤孝は勝俊が京に穏棲の後に交流を深め、
師弟として詩歌の道に精励している。
 叔父・甥の間柄であれ当然だが、
勝俊が成人するまでの聞、まったく交流がなかっただけに、
三淵伊賀守の娘を、生母とするには、疑問がある。



 これらの資料を総合して考察するに、
勝俊は「木下家定の嫡子」とするならば、
すべてとまでは言えなくとも、合理性を見出せるのではないか。
郷土史も、長子新集も、元明の子としているが、さて、どうであろう。
先輩が挑んで解き明かせなかった、
木下勝俊(長子)の出自は「木下家定の嫡子」であったと、
私は考察する。


                             岡村昌二郎




美しい若狭を守り伝えたい・・・・