細川幽斎と若狭


細川幽斎の妻の里


若狭の小浜を後に南へ進むこと約一五キロ、
北川に沿って開けた平野がもっとも狭くなったっ所、
そこに熊川の町並みがある。

豊臣秀吉の相婿でもあり、秀吉に重用された浅野長政が、
若狭小浜の城主となった時、
交通ならぴに軍事上の要衝たるこの熊川に対して「諸役免除」の布告をし、
この地の特別の発達を図った。

以来、若狭代々の領主は、この政策を受け継ぎ、
熊川は江戸時代を通じて近江国境に接する宿場町として繁栄し、
また小浜藩の町奉行所も置かれ、番所(関所)も置かれてきた。

ところで、江戸時代の宿場としての熊川は広
く知られてはいるが、それ以前の室町時代にもすでに戦略上の要地として、
足利将軍直属の沼田氏が山城を構えて、この地を守ったことを知る人は少ない。

特に室町時代末期から江戸時代初期にかけての武将として、
また歌人としても有名な幽斎細川藤孝の妻(名は麝香、後に光寿院)は、
実は熊川城主沼田光兼の息女であった。
藤孝は幾回か熊川の地を訪れたようであるがあるが、ある年の初冬、
ここでにわかに連歌の会を催し、熊川の紅葉などを詠んだことが、
その連歌集『玄旨公御連哥』に収録されている。

また、明智光秀と親密であったとして一般にも知られる連歌師の里村紹巴も、
そのころ、熊川城主沼田氏の所に泊まったことを彼の『天の橋立紀行』に書いている。

これらはまったくその一例であるが、
特に中世においては京都から江州(滋賀県)を経て若狭の小浜に至る玄関は、
この熊川であり、また、若狭を訪問する人々の一番に落ち着く憩いの宿も、
この熊川であった。このことは、とりもなおさず京文化の受け入れ口が熊川であり、
その文化の潤いを最初に受けたのも熊川であったことにほかならない。

昭和四十四年五月、細川幽斎公直系十七代の御当主である細川護貞師が、
先祖にゆかりの地として、この熊川を訪問された。
また平成五年十一月には、地元上中町の懇請に応えて来訪、
「細川幽斎と若狭ー有縁の地を訪ねて」と題し御講演。
町内外からの多数の聴衆が、まことに深い感銘を受けた。
この年の八月、護貞師御令息細川護熙氏が内閣総理大臣に就任されている。







私はいつも思う学問研究上の「縁と恩」の不思議さと有難さを痛感すると共に、

幸いにも

『玄旨公御連哥』の中に残る幽斎公が

妻の里熊川で読んだ連歌の句碑をこの地に建立し、

若狭の文化史顕彰に資したいとの意慾を、

更に新たにしている昨今であります。



                 
郷土史家 永江秀雄






美しい若狭を守り伝えたい・・・・